BootCampでVR

こんにちは。ごぶさたしてます。
会社を辞めて、はや7年。
いろいろありましたが、以前よりは自分に素直に生きることができるようになりました。

ってことで、Boot CampVRは走るのか? Illusionの Honey Select2 (Libido)を VRで楽しみたいという私的リビドーは報われるのか?
<以下一部AVな表現がありますのでご注意ください>

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(このキャプチャはVR版ではありませんが)

結論から言うと、htc VIVEではできました。
カギは、接続ケーブルの選択。VR側リンクボックスの映像入力はHMDIポートではなく、その隣、右から2番めのMiniDisplayを使うとうまくいきます。MiniDisplayケーブル(両端オス)を使って、Mac側はThunder Boltポートにつなぎます。
最初、変換ケーブル使って、リンクボックスのHMDIポートにつないだのですが、これだとVR側が映像を認識してくれませんでした。(変換ケーブル、高かったのに!)

示唆いただいた、アストネスの堀さん、ありがとうございました。
今回のVIVEはアストネスからの1Wレンタルなのです。

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Mini Displayポートを使う

で、VR初体験のHoney Select2. いや、すごいわ。
等身大で現れるだけでも感激やのに、バックからヤっててもちょっと体ひねれば彼女どんなカオしてるんやろって見れるし。これって自分の体が彼女のからだのなか通過してるんやけど、それもまた新鮮。SFなんかに出てくるホログラムとのセックスってバカにしてたけど考え改めるわ。

画質はiMacのモニター(5k Retina)に較べればかなり落ちるけど、その粗さもまた一興。
処理スピードはiMacでは若干足りないらしく、ぶっかけシーンではちょっとカクつくときもある。

 

参考までにスペックとか載せときます。

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AMDBoot Camp用ドライバ(無料)最新版(19.30)にしてます。
https://www.amd.com/ja/support/kb/release-notes/apple-boot-camp

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SteamVR Testでは黄色信号ですが、だいたいは問題なし

・SteamVRを起動してからHoney Selectを起動、VRでスタート。

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Boot Campで Illusion っていうひと、世の中にはきっとたくさんいてはると思うんやけど(HoneySelect2の肌表現を十分に引きだせるのはやっぱりRetinaモニターやと思う)、このたび変換ケーブルでつまづいたとき、検索してもなかなか情報が出てこなかったので、同輩の参考になればと記します。

では。
暑い夏が続きますがみなさんご自愛ください。

グラス


きのうは会社づとめの最後の日だった。
たくさんの花束と、何度も「ひとこと」を言わされて、
社屋を出る。新橋駅へ向かう。信号を渡ると、
空気が変わった。

家に帰って、会社で使っていたグラスを丁寧に洗って、
細かな瑕や染みを洗って、
ビールを注ぐ。 自分に「おつかれさま」
なんて言わない。

翌朝。
グラスは僕の机の上にゐる
僕は、
会社の机から見ていた世界と、僕の机から見えている世界の
違いについて考える。

サラリーマン卒業にあたって




なぜこんなにもみなカイシャで働いているのだらう

いつのまにか、このくにの大地を耕す者は、数%になってしまった。
海の幸、森の恵みを生業とする者はもはや%にも満たない。

彼らが収穫する実りを、残りの多くの者は、売り買いしたり、供給したり、操作したり・・・日々そんなことばかりやっている。

生産しない者たちを食べさせるために、大地の民、山の民、海の民は、さらに搾りとられているが、それでも彼らにはつくり手としての誇りが、ある。

あわれなのは、自らの手でつくる喜びをとりあげられた、このくにの多くの、カイシャのひとびとであろう。

父の死に




父の死

悲しみは、ゆっくりと降り積もる。
こころの奥の深いところに、しんしんと降り積もる。今も。

気づくべきだったのだ。
昨年、各務くんが逝き、別所の義父が逝き、よっしーが逝き。
生きている美しい力は、静かな死へと、いつも、あっけなく、
移りかわるということに。

父の死は、
僕の幼少期の、成長期の、記憶の蓋を開ける。
大人へとむかっていたあの季節。

おまえが行きたかった人生を行けと、
言っているかのようだ。
あのころの父が。

意味なんかないんだ。

クラブに行った。
何年ぶり。いや、何十年ぶりに。


若いころよりも、「素直に」楽しめた。
あのころは不器用で、
自分という存在に自分の思いや考えが反映されていなくてはいけないと思い込んでいた。

自分のやっていることにどんな意味があるのかと
いつも誰かに問われている気がしていた。
「こうありたい」自分が体現できていなくてはと、
ずいぶんムチャなことを考えていた。


もちろん。そんなことはできっこない。
ありたい自分になれたなら、そのときそのように他人は見てくれるだろう。

だのに、
ありたい自分のイメージが自分にあるからといって、
外見を先取りしてから、内側を詰めようとしていた。
せっかちなものだから、時間の順序をあべこべにしていた。


意味なんか、無いんだ。
意味は、所与にあるわけではない。

クラブで一緒に踊っている若者たちを見て、わかった。
いま、踊っている僕たちは、ただこの瞬間のために踊っている。

いま、踊っている行為が、明日には意味を持つかもしれない。
そう。夜が明けるころには、ことばというレッテルを張られて、意味を持たされるだろう。

「クラブ X 農業」だとか「成功じゃん」とか「課題だね」とか。
「出会いがあったな」とか「かわいいコがいたね」とか。
そんなことばたち。

踊っているこの瞬間には、意味はまだ、追いついていない。
ことばはまだ僕たちの背中に貼りついていない。


夜が明けたら、
明日になったら、
意味と戦おう。

未来へ向けて、
僕らが踊っているこの瞬間が、
どのような意味を持つのか。
ことばとことばの戦いを再開しよう。

いまは踊っていればいい。
未来はあとからついてくる。