新年に。
新年、おめでとうございます。
僕の今年の抱負は、
「農 x 次世代」。
振りかえれば、昨年という年は、
「科学」や「進歩」「発展」という、
(なんとなく疑いながらも)前提視していたものが、
実は薄っぺらい、浅ましいものであったことを
思い知った年でした。
未来は、やはり循環社会でなくてはならないし、
それはひとと自然、ひとと社会の関係をゆたかにしていくところに
たちあらわれるのだと、
年の節目に、思いを新たにするしだいです。
循環社会の基本は、自然と向き合っている、農山漁村にあると考えられるし、
その地で以前の世代から継承されてきた社会や文化、知や技、考え方を
子供たちとともに学び、未来をつくる子供たちに渡していく。
そんな活動をやっている知り合いのところに
混ぜてもらおうかなと考えています。
今年という未来が、もう流れはじめている。
ぼちぼち、行きまひょか。
「消費のよろこび」は何処へ
Blogはいつも個人的なものだけれど、今回はとくに。
自分には重大問題なんだけど、おそらく普通の人にとってはなんじゃらほいって事柄なので、つまらないなと思ったら、即スルーしてください。
いつか面白くなるのではと期待して読み進んでいただいても、何のどんでん返しもありませんから。
では。
「現代社会の理論」(見田宗介,1996,岩波新書)では、産業社会が引きおこす深刻な問題として、
・ 資源の収奪と廃棄物による環境破壊、
・ 「南」と「北」の(そして北の内なる)収奪構造と格差、貧困を挙げ、
この課題を超えてゆく鍵として、「消費の情報化」の新たな展開という方向性を示している。
方向性を示しているだけだから、具体策は書かれていない。それは各自が各自の立っている場所で探せということだろう。
そんなら探しにいこうぢゃないか。
まず「消費の情報化」であるが、確かに消費をどう意味づけるかで、経済の中で人生を生きている僕たち「北」の現代人にとっての世界の見え方は一変するだろう。
僕たちの人生はまさに、ゆりかごから墓場に至るまで、「買い物」で成り立っているのだから。
「消費をどう意味づけるか」と書いたが、「消費の情報化」の説明としては正確ではない。
僕たちは、商品に付加された「意味」を消費しているのだから、
「どのような意味づけ(情報)を消費するのか」が課題であり、
どのような意味づけ(情報)を、商品(に付加したもの)として提供できるかが、
僕たちの人生の景色と、産業社会のゆくすえを左右することになるだろう。
さて、この本では、「消費の情報化」を考える出発点として、「消費のよろこび」というキーワードが置かれている。
見田さんはここで「必要」から解き放たれた、「消費のための消費」を論じる。
この「消費のための消費」をめぐり、広告を中心とした言説が繰り広げる、めくるめく魅力。そのような魅力(という情報)を消費する消費者を、「消費のよろこび」に浴した大衆としてとらえている。
しかしこの本が発刊されてから15年が経ち、この「消費のよろこび」の内容も変容しつつあるのではないかと思う。
2011年の現在、日常に、買いたいモノはあるだろうか。
僕には、無い。
僕が年をとった、というだけのことかもしれない。(年をとって、ひととおりの耐久消費財は揃えてしまったか、経験して飽きてしまったということ。あるいは年をとって、ますます趣味の偏った変人になっているということ、かもしれない)。が、
僕の欲しいものといえば、日本に古くから伝わる、手づくりの家具調度のたぐいや、古い着物。あと田舎で自分ちで作っているような、匂いのしっかりした味噌や、無肥料で育った、味のしっかりした野菜と米。
「手づくり」であったり、つくり手との「つながり」に僕は飢えているのだろう。
いずれも工業社会の大量生産品ではないから、スーパーやデパートにはたいてい売っていない。
実際、誰しも、工場で、単に効率よく安く作られたモノなんかには、魅力を感じなくなっているのでは、ないだろうか。
農作物だけでなく、工業製品にも、「つくり手の顔」や、「ものづくりの物語」が求められている気がする。
ユニクロの服は売れるが、単に安い服は売れない。S.ジョブスが生んだ i-phoneのようなアウラは、Xperiaには無い。
商品を輝かせる(情報の)魅力とは、もはや品質でも機能でもないし、ライフスタイルでもない。
商品がかつてまとっていた、品質、機能、あるいはライフスタイル提案という情報、かつて広告が華やかに謳いあげていた情報は、すでに無効だ。すでに嘘がばれてしまっている。
ファミリーレストランのメニューは業務用レトルトをチンしただけのものであることも。
居酒屋のお財布に優しいつまみは、中国やタイの安い労働者と、彼らの地の自然の犠牲の結果であるということも。
ディズニー・シーのヴェネチアの街並みはFRP製の張りぼてだということも。シックなマンションの壁だって漆喰ではなくて、石膏ボードにビニール壁紙を張っただけの、TVセットみたいなものであることも。
みんなばれている。
「効率」への幻滅が、ここには、ある。
実在するつくり手との関係性。
それが今後の「消費の情報化」の展開を考えるうえでひとつの視角となるのではないだろうか。
広告の流れが商品からブランド、そして企業活動へとシフトしてきている気がするのも、このことと関係あるのでは、ないだろうか。
ということで。ベクトルはひとつ見えた気がするが、
いっぽう「消費の情報化」をどう豊かに展開してゆくか。という広がりをつくるための視角がある。
見田さんの本の中では、ここはバタイユということになっているようなので、それを読んでから再度、ここに還ってこよう。
キーワードで安心するな!
農大の先生(稲泉さん)のゼミの話のつづき。
エミールや三澤勝衛を読んで、学生同士で問いを設定してディスカッションをするのだが、
当然ただ読みとばしただけでは、きちんとした質問も答えもできない。
仲間に発する問いを考えるために、そしてその問いに答えるために、
学生たちは、読んだことを咀嚼して自分の言葉に置き換えてみる。
もちろんつたない問いや答えの応酬なのだが、
先生はヘンにまとめたり、先回りして誘導したりはしない。
じっと我慢して聞いている。
そしてゼミの終わりに
三澤勝衛の
「しかし体験のともなわない知識は真の知識ではない」
(三澤勝衛著作集第2巻p326)
ということばについてのディスカッションを振り返って、
他人がまとめてくれたキーワードでわかった気になることの危険をおっしゃった。
この情報化社会にはたくさんのキーワードがあふれている。
そしてキーワードを聞いて、また、そのままひとにしゃべることで、
本人はわかった気になっている。
しかし本当はキーワードの中身はわかってはいないんじゃないか。
自分の頭で考えて、自分の言葉でしゃべること。
たとえつたない言葉であって、ヌケやオチの多い議論であっても。
それが単なる「情報」が、身についた「知識」になるということではないか。
と。
僕もこうやって、聞いた言葉や、読んだ文章を、
ひとにむかって説明しようとすることで、
自分のものにしているのだと思う。
めんどくさがらずに、blogをつけよう。