農が社会をつくる

おとつい、ひょんなことから、経堂の東京農大の、ある先生の研究室に
遊びに行ってきました。
先生もいいひとでおもしろいんだけれど、農大の子たちがまた素直でまともで
いいかんじ。(ヘンなのもいたけど)


人間が土地とかかわってものをつくって生きていくことを当然と考えていて、
その前提に立ってそれぞれのなりたい進路へ向けて勉強をしているように見えました。

みんなが農業や醸造に関わるわけではないのですが、
たとえどんな仕事をするにも、自然や地域といった出発点を大事にしていました。

自然や地域を出発点として仕事や経済や社会を考えていない僕たちの方が異常なんだなと
深く恥じ入った次第。


自然が基本だ。
そして
農が社会をつくる。

本の中に(も)真実がある

最近本ばかり読んでる。

見田宗介さんの書いたものをいくつか読んでいて、

「先進国が自立しなくてはいけない」という主旨の言葉に出会ってはっとした。

南の国に依存した私たちの生活。これを続ける限り南北の収奪の問題は無くならない。
言われてみればあたりまえのこと。

あたりまえのことをきちんと明るみに出せるのが、このひとの仕事の素晴らしいところだと思う。

サブカルという生の誇り - 「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」を読んで。

確かに主人公のオスカーは女にもてない「オタク」だが、彼は、そしてこの壮大でありながらスピード感にあふれた物語に出てくる人びとは、誰も受け身ではない。誰も現実から逃げたりなどしない。
彼は、彼を取り巻く暴力的な世界と向き合う。そして傷つけられ、傷つけられ、傷つけられてもまた向き合う。

彼にはほかの道はないのだ。そして僕たちは気づく。僕たちにも(少なくとも僕には)ほかの道などないということに。僕たちは誰しも、この暴力と不条理に満ちた厳しい現実の中にひとりで立たされている。ということに。気づく。僕たちは、オスカーなのだ。

オスカーの視点から、つまりこの世界を生きる者ひとりひとりの地べたレベルの視点から、この世界をもう一度眺め、とらえなおすことができたこと。それが僕にとっての読後の収穫。そこが「チボの狂宴(リョサ)」との違い。
さあ、僕のいち日を生きよう。

(白状します。最後のところでは泣いてしまいました。男の子ならみんなわかってくれると思う。)


「オタク」
彼の「オタク(原著ではnerdというらしい)」的な性格にはSF映画マニア、文学青年といった要素がふんだんに含まれている。21世紀の東京ではオタクと映画愛好家は別カテゴリだし、文学青年は絶滅危惧種だが、ニューヨークらへんではまた違う状況なのかもしれない。きっとまだサブカルチャーという言葉が命を持っているのだろう。うらやましい。


ってAmazonにレビュー。

斉藤和義。なんてかっこいいんだ。「ずっとウソだったんだぜ」        〜ウソが暴かれたとき、世界は変わる。変えなくてはならない。〜

斉藤和義の「ずっとウソだったんだぜ」を聴いて感動。とてもいい歌だ。原発がどうこう以前に、「個」の異議申し立てが鮮やかに結実している。彼こそがロック・アーティストだ。


この歌が時代を画していると感じるのは、原発という時事ネタを扱っているからではない。原発に代表されるようなこの国の大人たち(僕も含めて)の古い(20世紀的な)考え方を、もはや「ウソだった」と過去形で、効力を持たないものとして、終わってしまったものとして、白日の下に晒したこと。それがこの歌を衝撃的なものにしている。

地球はCO2に覆われ、飢えるひとと浪費に明け暮れるひとの格差は目がくらむほどに拡がり、「自由な」競争は若者から仕事と尊厳を奪っている。

20世紀にはこういった問題は、科学と経済成長で解決されると説かれていた。環境破壊も貧困も経済格差もすべての社会課題は科学の進歩と経済的な豊かさが解決するとされていた。もちろん電力の問題も。

そう「ずっとウソだった」のだ。20世紀的なやりかたでは問題は解決しないことをみんなどこかで感じていらだっていた。前世紀の考え方にはすっかり無理が来ていてここ数十年は「ウソ」でとりつくろっていただけだった。それを彼は暴いた。「王様は裸だ。」と言った少年のように。
そしてやっと僕たちは気づいた。目を覆っていたうろこが落ちてみると、えらいひとたちの言うことは時代遅れのウソだったし、王様は裸だった。


そうして20世紀的なものから決別して、ぼくたちの世界はすでにゆっくりと動きだしている。と、感じたのは、この「ずっとウソだったんだぜ」を投稿したひとのコメントに出会ったときだ。


まず経緯を整理すると、
「ずっとウソだったんだぜ」は斉藤和義自身による「ずっと好きだったんだ」の替え歌で、彼がギター一本でカメラに向かって歌っている。なんにもないスタジオかどこかの片隅で、彼は自分でカメラの録画スイッチを入れて歌いだす。ひとりで淡々と歌う。とりはだが立つほどかっこいい。

そしてこの映像は一昨日4/7頃にYouTubeやニコ動に投稿され、昨日(4/8)は一日中削除と再アップのいたちごっこが繰り返された。本日(4/9)午前10時現在では削除に対して投稿が勝っているように見える(検索では62件の投稿が生きているのが確認された)。土曜日でレーベル(ビクター)からの削除要請が止まっているのかもしれない。



当然、投稿に寄せられるコメントには斉藤和義の行動への共感とともに、削除への抗議も多く見られるが、そのなかで昨夜見たある投稿者のコメントが心に残った。それは

「運営さん、消さないで > < 」

ひとりひとりがネットでつながろうとして、ネットを断ち切るものに対して連帯して立ち向かおうとする。
これはジャスミン革命と同じ構図ではないか!?

何よりこのコメントにはひとかけらのゆとりが、革命への希望が持っているものと同じ、未来への楽観的な確信が感じられる。YouTubeは、ネットは、自分たちに対して開いているという信頼感、この「つながり」が最後は勝つというネット時代の正義への確信が感じられる。そしてその姿勢に僕たちは共鳴する。


そう。ネットを断ち切ろうとする力はもう怖くない。それはすでに「ウソだった」ことがバレているのだから。
レーベルや音楽産業、マスメディアも、アーティストと大衆をつなぐというかつての役割を独占できてはいない。いまや彼らにネットを断ち切る力はない。せいぜい削除要請と再アップのいたちごっこに参加できるくらいのことだ。

同じように、政府や企業そして上からものを言おうとする権威たち、経済や科学を振りかざした彼らの権力も、もはやネットを断ち切ることはできない。彼らは情報をコントロールしようとするが、これ以上僕たち一人ひとりをだまし続けることはできないだろう。


ネットを断ち切ろうとする力が実は裸で「ウソだった」とわかったいま、自分たちが生きているこの世界を、自分たちの心にうそをつかない世界に変えていく、そんな静かな革命が始まろうとしている。いやもう始まっている。

斉藤和義が投稿映像の中で歌っている。「なにかがしたいこの気持ち」と。

花々は競っているのではない

生き物たちは、競っているのではなく
楽しんでいるのだと思う。


 x       x        x

競争モデルというディーパ(女神)
西欧近代が生んだ至高のプリンセス

欲望の眼差しで
獰猛な唇で
豊穣の腰つきで

男たちを戦いに駆り立てる


出し抜いて、収奪し、支配する。
痛めつけ、代替し、飼いならす。

ディーパのほほ笑みを受けるために


数(マス)で測り、垂れ流して、洗脳する。
売りつけて、雇用して、管理する。

ディーパのひざもとに招かれるように


そして彼らは、すべてを汲み尽くし、
捨てられるだろう。

生き物たちに。
新しい子どもたちに。
もちろんディーパにも。

一滴の大海 〜眠れぬ夜に〜

眠れない夜には、自分が真っ暗な宇宙の中に浮かぶ布団の中にいるような気がする。

なるほど僕は、ちっぽけな存在でしかない。
おおぜいの人びとがひしめくこの世の中で、個人は大海の一滴でしかない。

いかにも僕はこの大海の中では無名の存在だ。
人づきあいの悪い、孤独な日々を、
そう、一日一日を、費やしている。

しかし僕は知っている。
どれほど人間関係が浅く、世間との関係が偏った僕であっても、
自分が大海とつながった一滴であることを。

僕は大海の一部で、
大海は僕の一部でもある。

僕は母なる海に浮かんでいる。
そして星を見上げながら思う。

「この大海は一滴一滴で満たされているんだ。」と。

あの地震のあと、ぼくの中の何かが変わってしまった。気がする。

あの大地震のあとからずっと、なぜか心が落ち着かない。もう二週間になろうというのに。

地震がぼくの中の何か、世界の見え方のようなものを決定的に変えてしまった。そんな気がする。

実はこの感覚は初めてではない。9/11のときにもあった。
あのときも自分が今まで立っていた世界が突然ゆらぎだす思いを感じた。

無意識のうちにも頼っていた「強くて正しいアメリカ」がテレビの中で崩れ去り、力の支配の弱さと、正しさはけしてひとつではないことを教えてくれた。

WTCビル崩壊のニュースに歓喜するパレスチナの街かど。
あのショックをぼくは一生忘れないだろう。
映像がぼくに「世界は多様で広い。もっといろんな立場から見ろ」と言っていた。


あれからぼくは世界について考えるようになった(つもりだ)が、
今回は考え方というよりも行動を促されている気がする。
お前の生き方はこれでいいのか。こんなところでぐずぐずと惰眠をむさぼっていていいのか。と。

ぼくたちの世界はすでに変わっている(気がする)。

自然に逆らわない生き方。

鉄とコンクリートとカネで造ったみせかけの繁栄。
地球のてっぺんでわがもの顔に電気を、石油を、使いほうだい。
命あるものをカネで買えるものだと勘違いして飽食する。

そんな生活は、すでに終わっている。
ことに、やっと気づかされた。

そして、ひととひとのつながり。助け合いで世界は動いている。
ことがあらためて身につまされる。
旧い組織や、カイシャというしくみでは動きにくくなっている。
カイシャではなく、ぼくとしてどう動くのかが問われている。

この地震もこれからたくさんのことを教えてくれる気がする。
いまはまだ、変わってしまった世界の輪郭がよく見えないぼくだけれど。