斉藤和義。なんてかっこいいんだ。「ずっとウソだったんだぜ」        〜ウソが暴かれたとき、世界は変わる。変えなくてはならない。〜

斉藤和義の「ずっとウソだったんだぜ」を聴いて感動。とてもいい歌だ。原発がどうこう以前に、「個」の異議申し立てが鮮やかに結実している。彼こそがロック・アーティストだ。


この歌が時代を画していると感じるのは、原発という時事ネタを扱っているからではない。原発に代表されるようなこの国の大人たち(僕も含めて)の古い(20世紀的な)考え方を、もはや「ウソだった」と過去形で、効力を持たないものとして、終わってしまったものとして、白日の下に晒したこと。それがこの歌を衝撃的なものにしている。

地球はCO2に覆われ、飢えるひとと浪費に明け暮れるひとの格差は目がくらむほどに拡がり、「自由な」競争は若者から仕事と尊厳を奪っている。

20世紀にはこういった問題は、科学と経済成長で解決されると説かれていた。環境破壊も貧困も経済格差もすべての社会課題は科学の進歩と経済的な豊かさが解決するとされていた。もちろん電力の問題も。

そう「ずっとウソだった」のだ。20世紀的なやりかたでは問題は解決しないことをみんなどこかで感じていらだっていた。前世紀の考え方にはすっかり無理が来ていてここ数十年は「ウソ」でとりつくろっていただけだった。それを彼は暴いた。「王様は裸だ。」と言った少年のように。
そしてやっと僕たちは気づいた。目を覆っていたうろこが落ちてみると、えらいひとたちの言うことは時代遅れのウソだったし、王様は裸だった。


そうして20世紀的なものから決別して、ぼくたちの世界はすでにゆっくりと動きだしている。と、感じたのは、この「ずっとウソだったんだぜ」を投稿したひとのコメントに出会ったときだ。


まず経緯を整理すると、
「ずっとウソだったんだぜ」は斉藤和義自身による「ずっと好きだったんだ」の替え歌で、彼がギター一本でカメラに向かって歌っている。なんにもないスタジオかどこかの片隅で、彼は自分でカメラの録画スイッチを入れて歌いだす。ひとりで淡々と歌う。とりはだが立つほどかっこいい。

そしてこの映像は一昨日4/7頃にYouTubeやニコ動に投稿され、昨日(4/8)は一日中削除と再アップのいたちごっこが繰り返された。本日(4/9)午前10時現在では削除に対して投稿が勝っているように見える(検索では62件の投稿が生きているのが確認された)。土曜日でレーベル(ビクター)からの削除要請が止まっているのかもしれない。



当然、投稿に寄せられるコメントには斉藤和義の行動への共感とともに、削除への抗議も多く見られるが、そのなかで昨夜見たある投稿者のコメントが心に残った。それは

「運営さん、消さないで > < 」

ひとりひとりがネットでつながろうとして、ネットを断ち切るものに対して連帯して立ち向かおうとする。
これはジャスミン革命と同じ構図ではないか!?

何よりこのコメントにはひとかけらのゆとりが、革命への希望が持っているものと同じ、未来への楽観的な確信が感じられる。YouTubeは、ネットは、自分たちに対して開いているという信頼感、この「つながり」が最後は勝つというネット時代の正義への確信が感じられる。そしてその姿勢に僕たちは共鳴する。


そう。ネットを断ち切ろうとする力はもう怖くない。それはすでに「ウソだった」ことがバレているのだから。
レーベルや音楽産業、マスメディアも、アーティストと大衆をつなぐというかつての役割を独占できてはいない。いまや彼らにネットを断ち切る力はない。せいぜい削除要請と再アップのいたちごっこに参加できるくらいのことだ。

同じように、政府や企業そして上からものを言おうとする権威たち、経済や科学を振りかざした彼らの権力も、もはやネットを断ち切ることはできない。彼らは情報をコントロールしようとするが、これ以上僕たち一人ひとりをだまし続けることはできないだろう。


ネットを断ち切ろうとする力が実は裸で「ウソだった」とわかったいま、自分たちが生きているこの世界を、自分たちの心にうそをつかない世界に変えていく、そんな静かな革命が始まろうとしている。いやもう始まっている。

斉藤和義が投稿映像の中で歌っている。「なにかがしたいこの気持ち」と。