「消費のよろこび」は何処へ

Blogはいつも個人的なものだけれど、今回はとくに。
自分には重大問題なんだけど、おそらく普通の人にとってはなんじゃらほいって事柄なので、つまらないなと思ったら、即スルーしてください。
いつか面白くなるのではと期待して読み進んでいただいても、何のどんでん返しもありませんから。

では。


現代社会の理論」(見田宗介,1996,岩波新書)では、産業社会が引きおこす深刻な問題として、
  ・ 資源の収奪と廃棄物による環境破壊、
  ・ 「南」と「北」の(そして北の内なる)収奪構造と格差、貧困を挙げ、

この課題を超えてゆく鍵として、「消費の情報化」の新たな展開という方向性を示している。

方向性を示しているだけだから、具体策は書かれていない。それは各自が各自の立っている場所で探せということだろう。 
そんなら探しにいこうぢゃないか。


まず「消費の情報化」であるが、確かに消費をどう意味づけるかで、経済の中で人生を生きている僕たち「北」の現代人にとっての世界の見え方は一変するだろう。
僕たちの人生はまさに、ゆりかごから墓場に至るまで、「買い物」で成り立っているのだから。

「消費をどう意味づけるか」と書いたが、「消費の情報化」の説明としては正確ではない。
僕たちは、商品に付加された「意味」を消費しているのだから、
「どのような意味づけ(情報)を消費するのか」が課題であり、
どのような意味づけ(情報)を、商品(に付加したもの)として提供できるかが、
僕たちの人生の景色と、産業社会のゆくすえを左右することになるだろう。


さて、この本では、「消費の情報化」を考える出発点として、「消費のよろこび」というキーワードが置かれている。

見田さんはここで「必要」から解き放たれた、「消費のための消費」を論じる。
この「消費のための消費」をめぐり、広告を中心とした言説が繰り広げる、めくるめく魅力。そのような魅力(という情報)を消費する消費者を、「消費のよろこび」に浴した大衆としてとらえている。

しかしこの本が発刊されてから15年が経ち、この「消費のよろこび」の内容も変容しつつあるのではないかと思う。


2011年の現在、日常に、買いたいモノはあるだろうか。
僕には、無い。

僕が年をとった、というだけのことかもしれない。(年をとって、ひととおりの耐久消費財は揃えてしまったか、経験して飽きてしまったということ。あるいは年をとって、ますます趣味の偏った変人になっているということ、かもしれない)。が、

僕の欲しいものといえば、日本に古くから伝わる、手づくりの家具調度のたぐいや、古い着物。あと田舎で自分ちで作っているような、匂いのしっかりした味噌や、無肥料で育った、味のしっかりした野菜と米。

「手づくり」であったり、つくり手との「つながり」に僕は飢えているのだろう。
いずれも工業社会の大量生産品ではないから、スーパーやデパートにはたいてい売っていない。


実際、誰しも、工場で、単に効率よく安く作られたモノなんかには、魅力を感じなくなっているのでは、ないだろうか。
農作物だけでなく、工業製品にも、「つくり手の顔」や、「ものづくりの物語」が求められている気がする。


ユニクロの服は売れるが、単に安い服は売れない。S.ジョブスが生んだ i-phoneのようなアウラは、Xperiaには無い。

商品を輝かせる(情報の)魅力とは、もはや品質でも機能でもないし、ライフスタイルでもない。

商品がかつてまとっていた、品質、機能、あるいはライフスタイル提案という情報、かつて広告が華やかに謳いあげていた情報は、すでに無効だ。すでに嘘がばれてしまっている。


ファミリーレストランのメニューは業務用レトルトをチンしただけのものであることも。
居酒屋のお財布に優しいつまみは、中国やタイの安い労働者と、彼らの地の自然の犠牲の結果であるということも。
ディズニー・シーのヴェネチアの街並みはFRP製の張りぼてだということも。シックなマンションの壁だって漆喰ではなくて、石膏ボードにビニール壁紙を張っただけの、TVセットみたいなものであることも。
みんなばれている。

「効率」への幻滅が、ここには、ある。


実在するつくり手との関係性。
それが今後の「消費の情報化」の展開を考えるうえでひとつの視角となるのではないだろうか。

広告の流れが商品からブランド、そして企業活動へとシフトしてきている気がするのも、このことと関係あるのでは、ないだろうか。


ということで。ベクトルはひとつ見えた気がするが、
いっぽう「消費の情報化」をどう豊かに展開してゆくか。という広がりをつくるための視角がある。
見田さんの本の中では、ここはバタイユということになっているようなので、それを読んでから再度、ここに還ってこよう。