ユニクロ・カレンダー

美しいこの国の季節の移ろいの下、
微速度撮影で流れるマス・ゲーム。
人形のように、コマ撮りアニメのように、
愛らしく動く人びと。
まるでオルゴールの部品のように。
譜面に書かれた音符のように。

それは、日本。
というメッセージ。そして、
ユニクロの海外向けブランドイメージ。

でありなから、今日の日本という社会の
批評ともなりえている。


水野さんがブログで
ユニクロのWebに関わっている中村勇吾さんの影響について触れ
「建築」というキーワードを出していた。
そう言われてみればこのユニクロカレンダーも、
建築的な発想のデザインの本流アプローチかも。


建築は、それを使う人のためにデザインされる。
お得意さんのためではなく。
学校も。飛行場も。スーパーも。 おうちも。橋も。工場も。
使う人びとの行動が、思いが、かたちとなってたちあがったとき、
そこにあるのは、目で見ることのできる、わたしたちの「社会」。
そしてその建物が何かを語りだすとき、それは社会批評となる。

すべての建物が語りだすわけではない。
わたしたちの社会のなかに潜んでいる何かの欲動を、
見事にカタチに昇華したとき、
デザインは美しい力を持つ。
発信する、力を持つ。


ユニクロの服。
真っ白な売り場に整然と積みあがっている風景は、
もはや服というよりは布製品。

無責任なほど安く、
無愛想なほど気軽に「いま、ここ」に立っている。
何も引きずってはいない。
モードも、テロも、飢餓も、温暖化も、自殺も。
過去も、未来も。

漂白され、表情を失った、ふりをしている、
2011年の東京の生きかた。
そむけているのか。
はじき出されたのか。
眠っているのか。

ひとりひとりはそうであっても、
そうであっても全体は、マス・ゲームは、動いていく。
美しい、季節の下。
ひとりひとりとは関係なく。

それが この国のあり方。
そんな ことはわかっている。
そんな に嫌いじゃない。
そして いごこちがいい。

ともかく外から見ると、
こんなに奇妙で、美しい、日本。

として、定着させた、ユニクロ・カレンダー。
デザインという行為が成功し、結果、美しさが獲得できているから批評たりえているのか。
それともデザインという行為の中に批評性が内在していて、正しく展開できれば美しさを帯びるのか。

とまれ。
広告もこれからは批評たりえるという可能性を見た。1月21日金曜日の夜。




水野さんのブログ
http://mizunoyutaka.blog.so-net.ne.jp/archive/c2495-1